連載☆2017G.W.合宿〜序章 ファシリテーターの対話(4)〜

2017年04月01日土曜日 (株)プレイバック・シアター研究所 事務局

序章 〜ファシリテーターの対話(4)〜

縄からの投稿です。こちらは初夏の気持ちのよい風がふいています。
投稿が遅れてしまい、お待たせしてしまいました。

さっそく本題にはいりましょう。

立命館で行ったワークショップ、あれは画期的でした。
本を書くことを前提として3人のファシリテーターがワークショップを行い、それを材料にシンポジウムを参加者と一緒に行う。
そして本の中で、担当したファシリテーターと教育の専門家が対話形式でワークショップの逐語録に解説をする。
今回の合宿でオープンダイアログをしようという発想の原点は、もしかするとあの本にあるのかもしれません
     ドラマと学びの場 晩成書房
画期的でとても良い本です。
ワークショップやったり、ファシリテーションに興味のある人、ぜひ読んでください
宣伝になってしまいましたが、ほんとに良い本なのですよ

ゆりさんはあのワークショップで僕が冒頭で言ったことをよく覚えていますね
言葉を鮮明に覚えていることにまず驚きます

確かにそのようなことを言ったなあ
言ったかもしれない
そういう状況なら言ってるだろうな

ぐらいの曖昧な記憶しか僕はないのです
ゆりさんの「言葉の記憶」に驚くことはこれまでもありました
共に担当したワークショップの振り返りで、僕が言ったことを正確に覚えていて
「なぜあの時、ああ言ったのですか?」
と尋ねられて、僕は曖昧な記憶しかなくしどろもどろになったことがあります
発した言葉、それは自分の言葉であっても、相手の言葉であっても
僕はあまり覚えていません
もちろんまったく覚えていないわけではないのですが、
ゆりさんがあまりにも正確に覚えているので
僕の覚えている、は覚えているにはいらない
と思うぐらい、ゆりさんと僕の「言葉の記憶」には隔たりがあるように思うのですが
ゆりさんの「言葉の記憶」はどのようなプロセスで記憶され
それはどう残り続けているのでしょうか
あんなに正確にいつまでも覚え続けていると
記憶する脳が容量オーバーになってパンクすることはないのでしょうか

ゆりさんがプレイバックをやった時に僕を乗りうつらせたことが何度もある
とのことですが、それってすごいことですね
僕はたぶんゆりさんのファシリテーションを再現するというか、なぞるとかはできないと思います
そういえば、オーハシヨースケさんがやったワークを、ゆりさんが自分のワークショップでやってみた
といつか言っていましたね
いろんな人のワークショップに参加して、
その中のエッセンスをゆりさんはとりいれて、ゆりさんのワークショップは
進化(深化)し続けているのですね

ゆりさんのワークショップに参加して思うのは、やることの引き出しというか
ワークを無尽蔵に持っていて、一度たりとも同じことはないのですが
それはいろんな人たちのものを取り入れ続けているから
あのようなことができるのだと理解できました

僕自身のワークショップは同じことばっかりやって
ワンパターンです
それがお互いの特徴かもしれません

さて、お互いのワークショップをどう見ているのか
相手をどうみたてているのか
ということからいろんなやりとりが始まっています
合宿をどのように考えているか、ということも始めていきましょう

まず、語り手になりませんか?という投げかけですが
ゆりさんがもしも語りたくなったら、という意味で受け取ってください
自分は主催者側だから語り手にはならない、という枷はないですよ
という意味で伝えたかったのですが
自分が書いたことを読み返してみると
語ることを強いるようなニュアンスで伝わりかねない言い方してました
そういうつもりはないのです

お互いに相手が担当している場では、自分として参加してみましょう
ということなのですが
そもそも自分として参加する、ファシリテーターとしている
の間に僕は違いがあるようにとらえているのだということに
気がつきました

ー羽地朝和

 

 

☆序章 〜ファシリテーターの対話(5)事務局の独り言〜 へつづく☆