ストーリーとコミュニティ

 

 

 ミャンマーを僕が初めて訪れたのは8年前。その頃はまだ名前しか知らない国で、ミャンマーに住みついた友人から「はねちゃん、寂しいからミャンマーに来てプレイバック・シアターやってよ」と誘われ、何の予備知識も特別なイメージもないままに訪問し、それから何度も通うようになった。今ではミャンマーでもプレイバック・シアターを愛する人たちが増え、毎週活動するグループもできた。その仲間たちと孤児院や障がい者施設、盲学校を訪問して、子どもたちの思い出や日常生活のひとコマを語ってもらい、分かち合う活動を続けている。日本にいる時は治療や問題解決など何らかの効果を期待されて行うことが多いが、ミャンマーではただ語ること、分かち合うことをみんな心から楽しんでいる。プレイバック・シアター本来の姿がここにあるように思う。

 

 —プレイバック・シアターは、即興劇を使った独創的なメソッドです。創始者ジョナサン・フォックスの「コミュニティのなかで人と人とのつながりを育む場」というアイディアを基にうみだされました。参加者が語った人生の思い出や日常生活のある場面を、役者がその本質的なエッセンスを受け取り即興で表現します。元々はコミュニティシアターとしてうまれましたが、芸術的で治癒的、そして社会性があるため、現在は臨床や治療現場、教育、芸術、社会問題や国際紛争を扱う場など幅広い分野で活用されています―

 

 ミャンマーに、プレイバック・シアターの活動を続けているユユという日本語が堪能で優秀な女性がいる。自身も障害を持つ彼女は、ミャンマーの障がい者の為にプレイバック・シアターを広めたいので日本に行って学びたい、という強い気持ちをずっと抱いていた。そこで基金を募り数ヶ月間来日してもらった。僕のワークショップやクリニックの治療グループ、学級崩壊クラスなど実際の現場でプレイバック・シアターを通して日本社会に触れた彼女は、いくつかの質問を投げかけてきた。「橋も建物も立派でお金持ちの日本で、どうして家のない人が道で寝ているのですか?どうしてお金持ちの人たちはその人たちを助けないのですか?」「どうして日本は豊かで安全なところなのに、日本の人たちは幸せな顔をしていないのですか?」「どうしてみなさんセラピーの中では悩んでいることを話すのに、家族や友達には話さないのですか?」ミャンマーでは困っている人がいたら助けるのがあたりまえで、悩みや問題を抱えたらお寺に行って祈り、家族や仲間と語り合い、一緒に嘆き悲しむ。もちろん嬉しいことがあってもお寺に行き、感謝の祈りをし、みなで喜ぶ。知らない人同士もどこかつながっていて、お互いに助け合って生きている。共同体感覚がそこにはある。社会に様々な問題を抱え、経済的には貧しいが、こころの豊かさを人々は持っている。彼女にとって日本は憧れの国。その日本に初めて訪れて日本人の生活に触れると、不可解にうつることがたくさんあるようだった。

 

 ヤンゴン空港に到着すると「ああ、また帰ってきた」という気持ちになるのは、気候や風土、そして人々が優しくてのんびりしていてシャイなところだけでなく、共同体感覚がまだ残っているところがふるさとの沖縄と似ているからなのだろう。ミャンマーに一緒に行った沖縄の若者達も口々に「なんだか懐かしい感じがする」と言っていた。ちなみに沖縄ではこの共同体感覚を「ゆいまーる」という。

 プレイバック・シアターはお互いに助け合い、語り合い、ひとりひとりの人生を分かち合う場である。そこで語られるのは個人のストーリーだが、ひとつひとつのストーリーを丁寧につむいでいくと、コミュニティが持つ共通のストーリーが浮びあがってくる。かつて王朝が栄え、戦争で多くの人々がなくなり、植民地の歴史を持つ。そして未だ軍隊の影響を強く受けながら、人々が明るく助け合って暮らしている。そんな共通の歴史を持ったミャンマーと沖縄は、コミュニティが根底に抱えているストーリーが似ている。だからなおさら懐かしく感じるのかもしれない。

羽地朝和