連載☆2017G.W.合宿~序章 ファシリテーターの対話(2)〜

序章 〜ファシリテーターの対話(2)〜

りさんからいただいた問いに応えます。

一緒に合宿をやりませんかとお誘いしたのは、参加者としては、ゆりさんがつくる場にとても興味があり、何をするんだろうとわくわくさせてくれるものがあるからです。そして、同じワークショップを生業としている者として、彼女のもつすごみとつくりだす世界にとても興味があります。

ゆりさんは僕のプレイバック・シアターを安心で安全な場だと評してくれましたが、僕から見ると、ゆりさんがつくる場に僕はゆるぎのない安心を感じます。安全というのは違う感じがしますが、うん、決して安全ではない、しかし安心がある。何をするかわからない冒険の場なのですが安心していられる、それに対する信頼があります。それも特定のメソッドや手法の枠にはとらわれず、安心を生み出します。ここに彼女が持つすごみがあると思うのです。

例えば、プレイバック・シアターにはリチュアルという枠があり、このリチュアルをしっかりと守っていれば安全でクリエイティグな場がうまれ、そして安心して深いテーマを分かち合うことができます。これはプレイバック・シアターに限ったことではなく、確立された様々なメソッドはどれもそうだと思うのですが、ゆりさんの場合は、このよってたつメソッドがない。なのに絶対的な安心がうまれ、そしてその安心の中で冒険ができる。これが彼女の持つすごみ、

そう、枠がないけれど、世界がある

アプライドドラマ研究会でゆりさんが「ゆきむすめ」の物語を基にしたアプライドドラマを創作し、それを行いました。正直なところ、今思い出そうとしてもなんのワークをやったのかよく覚えていないのです。が、「ゆきむすめ」の世界が、物語のイメージが、場面がありありと記憶に残っています。雪女たちが手を伸ばし迫ってくる怖さ、真っ白い雪におおわれた村の端っこで家が燃える匂い、春が来てひとり村をさっていく若い男の後ろ姿・・。何をやったのか覚えてないけれど、経験した世界が残っています。

何をやるか、よりもどのような世界をつくるか
多分そこを大切にしているのではないか、それしか考えていないのではないか
いったい何を考えてワークショップをすすめているのか、その思考のプロセスをみてみたい。
ゆりさんは考えていること、感じていることを言語化する能力がとても優れています。ワークショップをすすめながら、何を感じ、どう判断して場をつくっているのか、お互いに対話しながら進めていくので、きっと僕が考えていることもうまく言語化をしてくれるのではないか。

そして
メソッドにとらわれないゆりさんが、今回の合宿ではプレイバック・シアターをやってくれるという。どんなことになるのか、プレイバック・シアターをどうとらえているのか、その世界を体験するのがとても楽しみである。

もう一つの楽しみなのですが、僕のプレイバック・シアターのなかでゆりさんに語り手になってほしいというリクエストをします。ゆりさんの生い立ちの歩み、その一端を分かち合ってもらえたらと願っています

いかがでしょうか?

ー羽地 朝和

 

もしろい!私は自分の作る現場を
皆さんが安心できる場だと思ったことはないです
むしろ羽地さんとは逆で、自分の場は
「安全であるけれども、安心できる場ではない」
と思っていました
安心してもらっては困る、とすら思っています
でも怪我するとか、他者から乱暴されるとかそんなことはないように
心配りをする
そんな風に思っていました

ここで、安心と安全ってなんだろう?って改めて定義してみましょうか
国語辞典では
「安全・・・危険のないこと。平穏無事なこと。傷ついたり、こわれたり、盗まれたりする心配がないこと。また、そのさま。」
「安心・・・心が安んじること、気がかりなことがなくて、心が落ち着くこと。心が安らかで心配のないこと」とあり、安心の方が「心」の文字がある分、個人の気持ちのさまを述べています

この定義からいくと、やっぱり自分の現場は

「物理的に安全な現場であろうと心配りします
だけど何が起こるかと予測はできません。
だって私自身が予測していないから。
安心な現場ではないかもしれません
どうか気をつけてくださいね
私も気をつけます」

という気持ちでやってます

あ、そういえば、何度かご一緒したことのあるSさんからも
「ゆりさんは安全ではないけど、安心の場を作るね」と言われたことがあるの思い出しました
うーん、これ、自分の存在感と同じで
自覚することができない領域なのかな?
あ、もしかして、もしかして、
参加者の視点での「安心・安全」と
ファシリテーターの視点での「安心・安全」は
違うかもしれないですね!

いや、でも羽地さんの場は、誰にとってもわかりやすく「安全・安心」の場であろうとしますよね
職人芸のようにそうであろうと心配りされますよね
それが、リチュアルの有効的なところなのかもしれません
羽地さんの安全と安心は、言葉を重ねて説き伏せるのではなく、時間を共に重ねることでいつのまにかみんなが(私が)安心しています
その作り方は、野暮な感じではなく、洗練されてるな、と思います

これはもう一つ、認めるかどうかわかりませんが、
羽地さんがある種の術を使っていると思っています
手法ではなく、術です。

羽地さんの場の質感は、例えるなら、とても均一でなめらかです
でも私の場は、すごくゴツゴツしてザラザラしている気がします

私のワークショップはおもしろい、けど、1回受けただけではよく分からない、ともよく言われます

私としては、それはいかんな〜と思いながらも、実はそれで十分なのではないかとも思ってます
何をしたかなんてはっきり言えるワークショップ、おもしろいかなあ?
あ、これ、他のファシリテーターに喧嘩売ってるわけではないです!あくまでも私のするワークショップにおいて、という意味です

でも私のワークショップを何回か受けると、その予測できないことを楽しむ余裕が参加者に生まれ、それが羽地さんのいう「安心」につながるのかしら・・・

ワークショップにおける「安全・安心」について
羽地さんはどうありたいな、と思っていますか
これ、もう少し考えたいです

それから
私は自分の感じていること、考えていることを言語化するのがうまい、といいますが
自分では、あまりうまいとは思えません
むしろ羽地さんの方がうまいくらいなのではと思っていました

ただ、言ってる人に問いを立てることは、好きです
その問いによって人が様々な面を持っているのが見える気がしてとても好きです
欠点は、自分の興味で聴き過ぎてしまうところ
自分では問うているつもりでも、その問いが自分よがりで人を切ってしまうことがあり
これに気をつけています

最後に、
羽地さんが「プレイバック・シアター」の手法をされるときに
私が語り手になるのはどうですか、というご提案をいただきましたが・・・・
ん〜〜〜〜、まあ、羽地さんが手法を脱ぐなら、私も何か脱がなくてはいけませんよね
でも、なんでそんなこというのかな〜
いやだなあ〜今のところ・・・(笑)
私の言葉は私だけのもので留めておきたい
変にポジティブとかに曲げられたらいやだな〜
あ、また喧嘩売ってる?もう、これ全くの私のプレイバックの偏見です!

自分でもうまく受け取めきれない膨大な自分の感情を、
それだけはちょっと・・・、という受け取りされたら、どうすればいいの?
ってこんなこと言うと羽地さんの思うツボで、そんな時は、そんな風にその場で言えばいいんですよって涼しい顔して返されるのわかってて
今言ってます

あ、でも、それはきっと参加者の皆さんと、どう時間を過ごしてきたかによりますね

合同ワークショップで手法を脱いだ安全、または安心ではないワークショップを
泊まり込みでかいくぐってきた仲間となら、その仲間だからこそ、
語りたくなるかもしれませんね

ー岩橋 由莉

 

序章 〜ファシリテーターの対話(3)〜につづく