連載☆2017G.W.合宿~序章 ファシリテーターの対話(3)〜

序章 〜ファシリテーターの対話(3)〜

月、倖田來未が「ダブルフェイス」というタイトルのアルバム2枚を同時発売しました。倖田來未ファンの僕は、ポスター付き初回限定版を購入し、拝聴しました。正直に言いますと、僕は「ダブルフェイス inside」の方が好みです。

「安全と安心」が対話のテーマでしたね。

僕には2つの顔があります。企業研修を行うコンサルタント、そして精神科クリニックでのセラピスト。企業コンサルティングと心の治療のそれぞれの領域で「安全と安心」について考えることがあり、それが僕がプレイバック・シアターで大切にしていることに関係しているように思うので、今回はそこから書き始めてみます。

まず、企業研修の領域。昨年から今年にかけてある企業で「ハラスメント」をテーマにした研修を一年間、本部長、部長、副部長、と上から順番に行いました。「ハラスメント」とは「嫌がらせ」のことで、「パワーハラスメント」「セクシャルハラスメント」などがあり、「安全、安心」とは対極にあります。「ハラスメント」がある職場では、部下は萎縮し上司の顔色をうかがい、自由に意見は言えず、尊厳が傷つけられ、安全ではありません。安心して担当業務に全力投球できません。そのような組織ではチャレンジやイノベーションも生まれません。

その企業でリサーチしてみると、誰もがそんな職場の状態を望んでおらず、ハラスメントをやろうと思ってやっているわけでもない。なのに、若い社員は上司からハラスメントを受けていると言い、課長は部長からハラスメント受けている言う、部長は本部長から・・・と、みなが上からハラスメントされていると訴えている。誰もが望んでいなくて、嫌だと思っているのになぜハラスメントは発生するのか?

2回の研修を終えた後に、本部長、部長たち24名と一人1時間のコーチング&カウンセリングを行いました。そこから分かったことは、ハラスメントをしていると部下から訴えられている上司ほど、業績をあげようと必死に仕事に取り組み、責任感があり、仕事の重圧の強いプレッシャーを受け、心身ともに高いストレス反応がでていました。決して嫌がらせをしようと思ってやっているのではない。真面目に必死に自分もボロボロになって仕事をしている。それなのに部下から「ハラスメントだ」と言われる。

「仕事の指示を出すとハラスメントだと言われるので、それなら部下とかかわらなければいいのでしょうか? 高いレベルの仕事を要求したりマネジメントを私はしなければいいのでしょうか? 羽地先生どう思いますか?」とある本部長がたずねました。答えは逆です、と答えました。今まで以上に部下と深くかかわる、本音を言い合う関係をつくり、対話をする時間をとる。お互いに期待していることを伝えあい、嫌なことは嫌と言い合う。それしかハラスメントの問題が生まれない職場をつくる道はありません。嫌なことを嫌と伝えあえ、両者の関係の中で起こったモヤモヤやトラブル、葛藤をお互いの関係の中で解決できれば、ハラスメントの問題は生じないのです。「安全と安心」の場は、言いたいことが言えて、嫌なことを嫌と言える関係性がある集団です。

集団やグループの中の「安全と安心」は、言いたいことが言えるかどうか、不満や不安などのネガティブなことも、嫌なことも臆することなく伝え合えるかどうか、なのではないかと思うのです。不満や不安がでている集団こそが安全で安心なのではないか。そう考えると、ゆりさんのワークショップでは結構みんな言いたい放題に不満を言いますよね。「時間を守らないし、いつ終わるかわからない」「何の目的でやっているのか全くわからない」などなど、不満をみんな口々に嬉々として言いたい放題に言います。僕もゆりさんのワークショップに参加して不満や文句を言いたくなったら言える環境が好きで、それで参加させてもらっているように思います。
ゆりさんがつくる場は、言いたいことが言える、それが安全や安心を生み出しているのではないかと思います。

実は、僕がつくりだす場は少しそれとは違う質があると思うのですが、自分のことは客観的に分かっていないので、僕がプレイバック・シアターでつくりだしている安全と安心は何なのかを、ゆりさんよかったら言語化してください。

長くなってしまいました。読んでくださってありがとう。
セラピー領域における安全と安心についてはまた違う要素があると思っています。それについては次に書かせてください。

それから、倖田來未とゆりさんは共通点がある、と最近気がつきました。
何だと思いますか?

京都出身の倖田來未
和歌山出身の岩橋由莉

京都と和歌山がつながっているところ

そこに何かがあると僕は思っています。

ー羽地 朝和

 

全と安心はどう違う?」「言いたいことが言える場とは?」という投げかけてもらったテーマに関心があるのですが、それらはひとまずどこかの棚に置いておいて、次のテーマに行かせてください。話がしたいテーマが次から次へとあらわれていて、それをひとつひとつ拾いたいのですが、一度に一つしか拾えないので、流れていってしまわないように頭のどこかに仮止めしているうちに、それらが積もり重なって僕の机の上のような状態になっています。ゆりさんが投げかけた大事なテーマを僕がスルーした感じがしたら、どうぞ遠慮なく指摘をしてもどしてください。僕は日常の会話の中でもこのことをよくやってしまうのです。

そう言えば、ワークショップのなかで、参加者が言ったことをじょうずに仮止めしておいて、それを後から絶妙のタイミングで仮止めの山から抜き出し、それを今起きていることと見事につなげることをゆりさんは時々やりますね。そのあたりの仮止めしたことを後からつなげて織りなし、新しい次元での展開をする見事さ、いつも学ばせてもらいたいと思っています。どうやったらあの展開と伝え方ができるのでしょう、センスと言ったらセンスなのですが、それを生み出す思考や直感のプロセス、瞬間の対応力について学びたいです。多分ですが、ゆりさんのあの見事なファシリテーションには、朗読劇をつくりだす時に使っている感覚や人を見る見方、指摘の伝え方あたりのスキルが発揮されているのではないでしょうか?

また脇道にそれてしまいました。これも仮止めして、今回のテーマに戻ります。
「安全、安心がある集団」それと「個人と個人の間の安全と安心」
共通していることもありますが、違う要素もあるように思うので、これを今回のテーマにします。

このテーマを考えるためにも、
まずこれまでゆりさんが書いてくださった文章のなかで、僕の琴線に触れたキーワードを書き出します

  参加者をみつめる時間がほしい
  できれば自分がみつめられてるってことに
  気づかない方がいいです

  安心してもらっては困る、
  とすら思っています

  何をしたかなんてはっきり言えるワークショップ、
  おもしろいかなあ?

  私の言葉は私だけのもので留めておきたい
  変にポジティブとかに曲げられたらいやだな〜

  自分でもうまく受け取めきれない膨大な自分の感情を、
  それだけはちょっと・・・、
  という受け取りされたら、どうすればいいの?

どのフレーズも僕の何かをひっかき、刺激します。相手を刺激する言葉をゆりさんは発します。決してわざとではないのですが、大いに刺激をする言葉を吐きます。同様に参加者はゆりさんの言葉の影響を直接受けます。
ですから、ゆりさんのワークショップにおける「安全と安心」はゆりさんとの関係において参加者が「安全と安心」を得るのではないかと思うのです。言うなれば、場に対する安全安心ではなく、ゆりさんに対する「安全と安心」。乱暴な言葉を吐きながらもそれがかえって「安全と安心」を生み出す。「乱暴な言葉」というのは、乱暴は言い方ですね。生の言葉といってもいいでしょう。直接相手にぶつける言葉が「安全と安心」をうむのはどうしてでしょう。「でっへっへ!」と大きく口を開けて笑う声が「安全と安心」をうむのは不思議です。

僕がこの前の投稿で書いた組織や集団、場のなかでの「安全と安心」とはまた違ったものが、ゆりさんが発する「安全と安心」にはあるのではないか。

これが、僕のゆりさんに対する見立てです。

僕がこうありたいと思っている「安全と安心」は、参加者同士の集団のなかでの「安全と安心」のように思います。
僕自身が与える影響は極力なくそうとしています。
ですからゆりさんが書いていた「その人をじっとみつめる」「みつめられた体感をのこす」という、相手に直接影響を与えるアプローチを僕はしません。多分ほとんどしていない。共に在るわけですからまったく影響を及ぼし合わないことはないのですが、それを極力なくそうとしています。そしてこれはゆりさんが「術」と指摘していたことにあたるのかもしれませんが、自分が相手や場からどのような影響を受けているかに集中をします。これは術とかではないのですが、やっていることです。

ゆりさんが前回の投稿で書かれていた
「自分でもうまく受け取めきれない膨大な自分の感情を、それだけはちょっと・・・、という受け取りされたら、どうすればいいの?」
という仮止めをひっぱりだしましょう。

膨大な自分の感情。ゆりさんの自分自身でうまく受け止めきれないほどの膨大な感情、それは他の人にはとても受け止めることができない、もしくは下手に受け止めようなんて輩がいたとしたら、受け止めるなんてぜ〜ったいにできるわけがない!
そう考えますか?

このテーマで対話をつづけてもいいでしょうか?
もしくは合宿で続きをしてもいいですね。

対話を安全で安心に続けられるよう、気をつけながら

ー羽地 朝和

 

ーーー難しい段階に入って来ました
広げるだけ広げたもんだから、一つだけをピックアップするのがなんだか怖いですね
まあ、様子を見ながら、脱線しながら行きましょうか

「僕自身が与える影響は極力なくそうとしています。
ですからゆりさんが書いていた「その人をじっとみつめる」「みつめられた体感をのこす」という、相手に直接影響を与えるアプローチを僕はしません。」

まず、「みつめる」というアプローチを羽地さんは「相手に直接影響を与えるアプローチ」ってしましたけど
これって、羽地さんが参加者の方々に言葉で場の枠組みをお話されることと似てないかなと私は思ってるのです

数年前に立命館で行ったすぅさんと私と羽地さんとのワークショップのことを思い出します。【「ドラマと学びの場」という本にもなりましたよね←宣伝】
羽地さんは二日目のワークショップ担当でした。1日目にすぅさんと私が2時間ずつワークショップをやってそのあと懇親会もやっていたので参加者同士はだいぶんと慣れてほぐれていたと思います。その二日目の朝、羽地さん担当のワークショップで、初めて来た参加者に向けて羽地さんはなんともきめ細やかに「1日目は1日目のこととして、2日目は新しい1日としてみなさんも参加してください」というようなことを言葉にしていました。あの時、すごくけだるい朝でしたが、言葉にすると普通のなんでもない言葉なのに、しょっぱなからスパッと一つに場を作って行くのがすごいなあと思って参加していたから思い出せるのです。

それからプレイバックを初めて行う人に対してはこんなことをしますよ、怖いかもしれませんがよかったら手を上げてみてください。言葉に詰まっても僕がサポートしますよ」というふうなこと言いますよね。

これって場にものすごくいい影響を与える存在として存在しようとしていませんか?

私は自分のやるワークショップの活動内容が非常に曖昧のところから始めますから言いようがないのです。だからみつめるしかできない。それで活動がうまくいかなければさっさと引っ込めます。それくらいやる内容に関してあまり思い入れがない。

でも、プレイバックの場合は最後の語りの人とそれをプレイバックして分かち合う
という行為そのものを引っ込めるわけにいかないですよね。ある意味がそれができるようになるまでをファシリテートしてるわけだから。
だからプレイバックをするというモチベーションを高めて行くためのすごい場の影響を与えてる人なのではないですか?

でね、羽地さんのその言葉や態度、あれ、を他の人がそのまんまやると、非常になんというか、正しすぎて不自然なんです
というのは、私自身高校やセラピーの専門学校で何度かプレイバックをさせてもらった時、進行に迷うと、羽地さんを乗り移らせたことが何度もあります(笑)乗り移らせるってすごい言い方だけど、要するに羽地さんならなんて言うかなって思ってやっただけなんですけど。(なんせプレイバックを最初に見たのは羽地さんのだったので)
んで、言葉や態度とかは明確なので、結構すぐ真似できるんです。でも、それをそのままやるとダメなんです。確かにある程度まではうまく遂行されますが、最後の心が響き合わない。

私が術といったのは、そこなんですが、実は羽地さんは極力影響を受けないような言葉遣いと態度に加えて、羽地さんならではの術を入れてるのです。だから唯一無二の場になる。それ、分かりにくいです。私のようなメソッドのないものの方が何をしてるかわかりやすいですが、羽地さんならではのって言葉でなかなか取り出せない。だって本人は影響がないように振舞ってますから。言葉も態度も独特なものではないです。でもね、すっごい術使ってますよ。

羽地さんは「自分が相手や場からどのような影響を受けているかに集中をします」
とさらっと言ってましたね。
私の言葉で言うと、
羽地さんは、対象の相手の何かと自分の何かを合わせてくるのです。
それは人によって違います。ある人にはその手に注目してその手の動きに合わせてくる。その人の見ているもの、またその人の言葉かもしれない。その人の何かを合わせてくるのです。そんな術です。自分発信ではないのですね。
相手に合わせて相手の何かを読み取ってその波に合わせていって、合うと、羽地さんの方へ引き寄せて行くこともできるのです。
何せ響き合ってますから。
参加者の体感としては、合ってる気持ちよさしかない

立命館のワークショップでも、語り手になった方が手を挙げた動機として「はねちゃんは語り手を大切にする。だから大切にしてもらいたいなと思って」と話されていました

これ、その人を大切にされるのを見るだけで、場も同じように大切にされていくんですよね

これが私の羽地さんならではの存在感と場づくりの見立てです

その術があるので、言葉や態度はなるべく影響受けないような形になったのではないでしょうか。too muchになってしまうから。

余談ですが、だからその術を使わない時の羽地さんとは、本当に合わない(笑)
プレイバックであんなに合っていたと思ったのに、日常生活ではまるで話を聞いてもらえないと言うことになるのですね〜(うそ)

羽地さんは【「安全、安心がある集団」それと「個人と個人の間の安全と安心】との違いについて書かれていましたが、私はあまりわけないです。本でも書きましたが、集団を一つの大きな生命体のように感じている。それ「個人・集団」と、私の関係性です。
んー、これが羽地さんの言ってることとかみ合っているのかどうかわからないのですがとりあえずこれに関してはここで置いておきます

さて、羽地さんが仮止めしてくださった言葉
【「自分でもうまく受け取めきれない膨大な自分の感情を、それだけはちょっと・・・、という受け取りされたら、どうすればいいの?」
という仮止めをひっぱりだしましょう。
膨大な自分の感情。ゆりさんの自分自身でうまく受け止めきれないほどの膨大な感情、それは他の人にはとても受け止めることができない、もしくは下手に受け止めようなんて輩がいたとしたら、受け止めるなんてぜ〜ったいにできるわけがない!
そう考えますか?】

他者は私の感情の一部を受け止めることはできると思います。でも全部なんて受け止められない。
反対に、受け止めた一部として表現してくださることは、涙が出るくらい嬉しいです。ありがたいです。

話が飛ぶかもしれませんが、私がプレイバックで大好きな活動は「コーラス」なんです。様々な感情が同時発生していて、それに感応したものの集合体。それならみれる。
でもそれを一つのストーリーのようにして見せられるとき、ちょっとドキドキします。
さらに、そこに時々神様みたいな声なき声の人が登場してその場をみていて何かをすくい上げたりメッセージを言ったりするでしょ?ああいうのがすごい苦手です。
同じ理由で「プレゼント」というプレイバックの活動もドキドキします。
まるっきり話したこともない人から受け取る「プレゼント」って嬉しいんですが、ある程度活動した人とプレゼントを渡し合うって、私にとってはものすごくドキドキすることです。
(そんなことは滅多にないのですが)これをやればいいんだよ〜ってアドバイスみたいなものを食らった感じがして、目がチカチカしてきて、もらったものをどうしたらいいのやら・・・と困ってしまうのです。

総括されたり、ポジティブな前向きな言葉になったり「素敵な」言葉になったりするのが苦手なんです。
それ、自分でもやれてしまうから、苦手なんです。

あ、誤解のないように言いますと、決してプレイバックを批判してるわけではないのです!
私の心がひねくれているので、苦手なんです
羽地さんのプレイバックの現場は好きです。とても。
人のお話を伺って何度も涙したし、自分が役をやる時には
精一杯やらせてもらいたいです
でも、自分が語り手になった時に
出てきたものを自分の中にどう収めればいいのか
本当に困ってしまうから、語り手はなるべくやりたくないんです

ー岩橋 由莉

 

☆序章 〜ファシリテーターの対話(4)〜につづく☆