フェアであること

2016年12月28日水曜日 配信

教育の場で「フェアであること」について、岩橋由莉さんが大切なことを書いてくれました。学びの場をつくる者として、この観点は自覚しておきたいテーマであり、みなさんと論じ合いたいテーマでもあります。

 

 

フェアであること

岩橋由莉

先週、大学の応用ドラマ教育論の授業で受講生徒が第1回目の模擬授業を行った。

これは前半9回を私がドラマの授業し、後半6回を生徒が数人1グループになって模擬授業を行う半期の授業だ。

模擬授業では、こんなふうな人に育ってほしいというねらいをつくり、対象者を自由に設定できる。その対象者の年齢にふさわしい授業を作ってくださいというオーダーをしている。

第1回目は「社会的性(ジェンダー)に対する潜在的意識への気づき」で中学2年生を対象に想定して行われた。

目標は

・普段意識の外にあるジェンダー(社会的性)を自覚し、セックス(生物的性)との違いを知る

・社会に存在する性に関する課題について問題意識を持つこと

の二つ

活動は大きく分けて3つ

1、「男性と女性の違い」について黒板に自由に生徒にそれぞれ書き出してもらい

それをもとに、ジェンダー的特性とセックス的特性について分け、違いを示す。

(例えば女は髪が長い、男は坊主にできるなどはジェンダーとして考えられる。

一方女は妊娠できる、男性にしかない機能がある、などはセックスである)

 

2、宝塚の写真を出して服装や化粧について意見を聞き(我々は何で性別を判断しているかなどに気づき)、トイレの男女のマークを3秒くらいパワーポイントで写し、どちらのトイレに入るかを選ぶ(ここではマークは同じでも社会的な色とは違う色にしてある。男マーク→赤、女マーク→青)もう一度先ほどのマークを見せて、自分たちの先入観を自覚する。

ここで私は見事に引っかかり、マークではなく、色で瞬時に男女の社会的な違いを認識しているのだと初めて気づかされる

 

3、日常生活や社会に存在するジェンダーギャップについて班ごとに話し合う

男は日傘を差さない、女子大という言葉はあるのに、男子大という言葉はない、男言葉、女言葉というものがある

他にも年代でのジェンダーがある

・プリクラは男性同士写りあうのは禁止(これは私にはよくわからないが、生徒は、「そうそう!」と納得している

・男性が食事をおごる(これは私の年代ではわかるが、生徒は「今は割り勘です」と言い張る)

女性専用車両は、男女ともに生徒から不評で、あれの存在がなくなってほしいとのこと

男性は、女性だけずるい!女性は、女性専用車両に乗らないとチカンに会うほどきれいだと思ってると思われるんじゃないかという不安から乗れないのだそうだ。びっくりする。

 

このチームは、3人がそれぞれ一つの活動を担当し、進行していったのだが、三人ともほんとうに生徒役の我々から話を聴くのがうまく、先を急ぎ過ぎず、丁寧に言葉を拾っていくのが特徴で非常に好ましいものだった。こんなふうに落ち着いて話を聴かれた模擬授業は初めてだった。

昔よりも今はどんどんジェンダーレス化が進んでいる、今一度ジェンダーとセックスは違うのだという事をわかってほしい、我々の身近な生活の中にジェンダーがある

とまとめられた。

最後に質問はないかとの問いに一人の生徒が手をあげた。

「結局、ジェンダーレスであることがいいことなんですか」先生役の子がめんくらい「先生の口からはどちらがいいとは言えません」との回答だった。

ここがひとつ大きなポイントだと感じた。

ふりかえりの際、先生役の生徒に「どうしてあそこでどちらともいえない」といったのか聴いてみた

今日の授業は我々が知らぬ間に植え付けられているジェンダー意識を改めて、検証し直すことができた。これっておかしいね、何か変だ、という意識が自然に芽生えてきた

これはすでに、教師側にジェンダーレスであってほしいという願いが込められているのではないか、と生徒の一人が指摘するのも無理はない。先生役の生徒に理由を聞いてみると、

自分が個人的な意見を言ってしまうとそれが周りに影響してしまうので公平な立場にいました

と言われ、初めて突っ込みたくなった。

いやいやむしろ、自分の考えを正直に述べたほうがいいのではないのか、と言ってみた。もともとこの模擬授業を設定した動機は、彼女の友人の一人が性同一性障害で悩んでいる、という所から始まっているそうだ。「今は無理でもゆくゆくジェンダーレスな世の中になっていけばいいと思っている」と。

ならばやっぱりそれを正直に言って、しかし、これをどう感じるかはあなたたちに任すよ、と言ってしまった方がフェアではないのか?ときいてみた

これいついては、生徒たちは「え?」そうなの?という何かピンと来てない感じだった

「中立を欠くと、先生らしくないのでは?」

そういった子もあった

本当に?

そこを表明したらみんな右に倣えで先生のいう事を丸呑みする?

私は違うと思う。ちゃんと自分で考える力はあると思う

自分の教育したい意図があるにもかかわらず、そこを言わずに授業をすると、それはプロパガンダのようになってしまうのではないだろうか?

その授業で言わなかったが、昔、3.11の出来事の1年くらいたった時、「原発を考える授業」をワークショップで受けたことがある。その時、渡された資料はA3で7枚、裏表びっしり書かれた反原発の資料だった。私は原発をいいと思っているわけではない。けれども、それを渡されてそこからドラマを作ることを要求された時、本当に腹が立ってしまった。何故偏った資料だけを渡すのだろう?資料を渡されずにドラマをもし作れと言われたら、私は原発のことも福島のことも何も知らない!と愕然としただろう、それでもドラマを作れば、知らないことを自分で調べるだろう、それこそが学習なのでは?と思った。そのワークショップは悔しい思いが残っているので、多分忘れないと思う

 

フェアであること、つまり

・私の居所を明らかにして、なおかつ参加者には、選択をたくす

・生徒の考える力、考える機会を奪わない

私がドラマのワークショップをファシリテートする際、とても大切だと思っている

 

彫刻家の佐藤忠良さんが、図工の時間について生徒に向けて述べた言葉がある

 

図工の時間は

上手に絵を描いたり

上手に物を作ったり

することがめあてではありません

 

きみの目で見たことや

きみの心でかんじたことや

きみの頭で考えたことを

きみの手で描いたり

作りだしたりしなさい

 

心をこめて作っていく間に

自然がどんなにすばらしいか

どんな人になるのが

たいせつかということが

わかってくるでしょう

それがめあてです

 

 

ドラマの授業もそうでありたいと思っている。

音・聴・感 探求ゼミ通信VOL3.

2016年11月16日水曜日 配信

(一部抜粋)『 音・聴・感 探求ゼミ通信VOL3. 』
ファシリテーター:いわはしゆり

岩橋由莉さんは、毎月プレイバック・シアター研究所の中目黒サロンで「音・聴・感探求ゼミ」を実施しています。

『 表現教育を学ぶ上で私が大切に考えていることの一つに、身体的理解、感覚理解を養う活動があります。
現代においては、物事を理解する時、正しい知識や情報を獲得することが不可欠なのですが、
毎日圧倒的な数で流れてくる情報、そのすべてを精査することは不可能です。
かといって、安全性を考えるあまり無難な情報だけを拾っていてもつまらない。
選別方法として皆さんはどんな方法をとっているのでしょうか?
私はいい、悪いの判断なく視覚や聴覚で身体に通していくと、直感が働いて拾うものがあります。
直観とはそれがなぜ働くかの理由が述べられないものです。
何故これをいいと思ったのかをはっきりとは言えない、けれどこっちの方向に進みたいのだと思う、
そんなことを直感を働かせるといっています。
直感は論理的ではないので、間違ったり何の意味もなさないこともしばしばあります。
直感通りにしてうまくいく方はたくさんいらっしゃるでしょうが、
私は直感が働いてもうまくいかなかったり、むしろものすごくめんどくさいことになったりすることがしばしばおこります。
私の中では合理性とは無縁な活動です。
それでも、それに従うことにしています。
この瞬間は意味もない事でも、その場の何かが必要だったかもしれないと思うから。

考えてみると、これは情報の獲得のことだけではなく、
何か自分の意思とは違うものに運ばれることを確信した時から、
セルフコントロールするある側面を手放してしまった自覚が私にはあります。
別の言葉でいうと自分の中の身体的理解、感覚理解というものを養ってきた実感がある、
と言えるのかもしれません。
脳科学の本を読んでいると、直感を司る脳の部位とは、
お箸を使ったり自転車に乗れるような繰り返し訓練したために
考えずとも駆使できる部分と同じところにあるのだそうです。
プロの棋士が毎日繰り返し手を考えることで、考えるより先に手が動いてしまうその瞬間の手は、
直感が働いているのだそうです。
一般的な知識や情報は普遍性があり多くの人と共有できるでしょう。
けれども自分の肉体を通したわたしにしか実感できない感覚というものもあると思います。

音聴感探求ゼミでは、参加者の皆さんお一人お一人がその言葉ではうまく言い表せられない
ご自身の存在を体感できる場を作っていきたいなと思っています。』  岩橋由莉

「音・聴・感探求ゼミ」Facebookイベントぺージ
?https://www.facebook.com/events/521512368049310/

新たな変化

2016年11月02日水曜日 配信

羽地です。企業研修を担当している中で、これまでにない新たな変化を二つ感じています。

一つは障がいを持った人が研修に多く参加するようになったこと。これは障がいを持った人の雇用がすすんできたことがひとつの要因だと思います。しかしこれまでもたくさんの障がい者が企業で働いていたと思うのですが、私の経験では障がいを持った人と研修で出会うことは少なく、年間百数十日研修を担当していますが1、2名ぐらいです。しかし今年になって新任主任研修といった階層別研修や手上げ式の研修、リーダーシップの公開セミナーに障がいを持った人たちが何人も参加されています。(ただし私の研修では身体障害の方々ばかりでした)

私が思うに、これまであった本人と研修担当者のためらいの壁がここにきていっきに低くなったのではないでしょうか。そして明らかに障がいを持った人が参加した研修は他と比べて一体感や集中力が高まり、研修の質が良くなり、おのずと学習成果が高くなる傾向があることを、研修担当者が気づき始めたように思います。
また、障がいに対する支援や個別対応をすることに研修担当者が労を惜しまないようになりました。たしかに障がい者が研修に参加するためには様々な支援が必要で、他の参加者へも配慮すべきことを伝えなければなりません。労力は増えるでしょう。個別対応も必要となり、コストも余計にかかるかもしれません。しかし私の経験でも、明らかに学習の質と成果は高くなります。この大きなメリットに研修担当者が気づいたのではないかと思います。

二つ目の変化は研修担当者や管理職から、発達障害を持った人のマネジメントや指導育成についての相談が増えたことです。これは発達障害に対する理解がやっと企業でも徐々にですが浸透してきたのではないかと思います。2018年4月から障害者の従業員に占める法定雇用率が上がり、精神障害者の雇用が義務づけられた流れの中で発達障害の人の採用がこのところ増えてきていることも一因でしょう。

管理職研修やリーダーシップ研修の中で現場第一線の管理職から、発達障害を持った部下の特性をどう理解し、その人に合わせたマネジメントをどうすればいいのか?といった質問を受けることが今年になって急に増えたことについては、「やっと来たか」という感じがしています。学校教育現場ではこのテーマはずいぶん前から大きな課題の一つでしたが、企業では議論はおろか、俎上にあがることすらなかったことがこれまで不思議でしょうがなかった。遅まきながらこのテーマを企業の中で真剣に議論する時が来ているように思います。

さて、これらの変化の根底にある事象は、これまでは画一的な規格内の人材ばかりを採用し、枠から外れた人を排除してきた日本の組織の中で、様々な個性、枠から外れた特徴(才能)を持った人がその才能を発揮できる土壌が徐々にですが整ってきた、と僕は見ています。別の見方をすると、天才や特異な才能を持った人が育ちにくかった・芽が摘まれてきた組織の中で、特異な才能を持った人が生き残りその才能を発揮できる可能性がでてきた、とも言えるでしょう。

異能発掘プロジェクトと称して、東京大学先端科学技術研究センターと日本財団が行っている、突出した才能があり学校になじめない子供を集めたプロジェクトの記事を読みました。そのプロジェクトは異端の天才を育てるのが目的ではなく、
「発達障害のような認知や人格の変異は、すばらしい個性であって、治療の対象とするべきではない。彼らが彼ららしく、つぶされずに堂々と生きられる、そんな社会を構築していく」
(東京大学先端科学技術研究センター 中邑賢龍教授) 
それがこのプロジェクトの目的だそうです。

同じ様な流れを、企業研修を通して、日本の組織の中で垣間見る今日この頃であります。

セミナー開催します

2016年10月11日火曜日 配信

11月11日、1月17日、心の健康維持増進シリーズウェルネスメソッドセミナーを開催します!

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